展示構成

第1章 明治の長浜 近代化と人々の暮らし
第2章 交わり・ひろがり・継承する 近代湖北の美術
第3章 長浜を襲った災害
第4章 第二次世界大戦と戦後の長浜
 
 
第1章 明治の長浜 近代化と人々の暮らし

 長く続いた江戸時代が終わり、日本は、天皇を中心とした中央集権国家を目指す新しい時代、「明治」を迎えた。新政府は、西洋の文化や制度を積極的に取り込み、「富国強兵(ふこくきょうへい)」実現のため、政治・経済・教育などのあらゆる面で近代化をすすめた。
 新たな道を切り拓いた明治の人々の努力と挑戦は、さまざまな成功と失敗を繰り返しながら、現在の私たちの社会や暮らしの礎を築いたのである。
 新しい時代を迎えた長浜でも近代化の波をいち早くとらえ、蒸気船の就航、小学校の開校、国立銀行の設立、鉄道の敷設など、繊維業でたくわえられた豊かな経済力と地域の人々の目覚ましい活躍によって近代化を成し遂げ、周辺地域へその波を伝播させていった。

 近代化の原動力・交通 ~蒸気船運航と鉄道敷設~

 琵琶湖を抱く滋賀県では、明治2年(1869)に初めての蒸気船「一番丸」が登場。これを機に琵琶湖は汽船ブームとなり、湖岸の各港でも次々と汽船が造られ、大変な賑わいを見せた。長浜では、明治4年(1871)に小船町の尾板六郎が蒸気船を購入し、翌年から「湖龍丸」として、大津-長浜間を運航し、その後も「長運丸」や「湖東丸」が造られた。明治9年(1876)には、汽船の検査や運航を管理する汽船取締会所が設立され、長浜にもその支局が置かれた。
 一方、陸路の主役は蒸気機関車であった。長浜では明治10年に町民有志が「長浜停車場」の設置を国・県に請願、明治13年には、長浜が鉄道と湖上交通の結節点と決まり、北陸線のルートは塩津経由から柳ヶ瀬経由に変更された。
 明治15年(1882)3月10日、待望の長浜~敦賀(金ヶ崎)間の鉄道が柳ヶ瀬トンネル部分を除いて開通、同時に洋館の長浜駅も開業した。
 鉄道敷設と鉄道連絡船の運航により、関西と東海・関東、北陸を往来する人々は、長浜駅で汽車と鉄道連絡船に乗り換えることになり、長浜は人や物資が集まる水陸交通の拠点として発展したのである。

   
近江国坂田郡長浜地引全図 明治時代
長浜城歴史博物館蔵(中村ヨシコレクション)
「長浜停車場」部分(拡大)
 長浜町を描いた地籍図。画面中央下に「長浜停車場」が描かれ、鉄道線路が北へ向かって延びている。途中で分岐しているのは、東方面へ向かう長浜~関ヶ原線である。本図には、米原方面への鉄道がまだ描かれていないことから、長浜~関ヶ原線が開通した明治16年(1883)から米原以南の路線を含む東海道線が全通する明治22年(1889)までに製作された絵図と考えられる。停車場の眼前には港も見られ、鉄道と鉄道連絡船のまちとして賑わっていた長浜のようすを窺うことができる資料である。
 なお、図中には「本丸」の小字名とともに「天守」の文字が見え、「明治」という煌(きら)めく新時代を迎えてもなお、かつてこの地に長浜城があったことを意識していたことがわかる。

第2章 交わり・ひろがり・継承する 近代湖北の美術

 絵画においては、日本画では明治から昭和にかけて中川耕斎(なかがわこうさい)とその門弟が湖北の美術史の一角を築き上げた。耕斎は京都で岸派を学び、明治になると同時に帰郷。全国の書画展覧会への出品や人々の求めに応じて精力的に制作を続け、同時に多くの弟子を育てた。なかでも清水節堂(しみずせつどう)は、耕斎のもとで学んだのち、東京美術学校(東京藝術大学の前身)に入学し、その後全国各地を遊歴して独自の画境を開いた。このほか、長浜町からは沢宏靭(さわこうじん)が出た。
 昭和から平成にかけては、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身)で学んだ日本画家・国友敬三(くにともけいぞう)が、地元・国友町を中心に書画制作や、商品デザインなどを手掛けた。
 洋画では、大正の終わり頃杉本鳩荘(すぎもときゅうそう)が長浜最初の洋画団体「白鴎会」を組織した。メンバーの一人である 阿閉良造(あつじりょうぞう)は、洋画や彫刻、挿絵など幅広く活躍した。
 
国友敬三「謡曲 杜若」 個人蔵 
 国友敬三(くにともけいぞう・1902-1992)は、昭和から平成初期にかけて活動した日本画家。国友町に生まれ、京都市立絵画専門学校を卒業し帰郷して以後、郷里で絵画制作や彫刻、商用デザインなどを手掛けた。また、自らも能を習い愛好した敬三は、作品の主要なテーマにもした。
 本作は、謡曲「杜若(かきつばた)」※を描いたもの。「若女(わかおんな)」の面(おもて)に初冠(ういこうぶり)と唐衣(からころも)を身につけ、腰に太刀を佩(は)いたシテが、扇を手に舞う姿を描いている。うす紫の唐衣、八橋文様の冠は追懸(おいかけ)をつける巻纓冠(けんえいのかん)、扇は黒骨の紅入鬘扇(いろいりかづらおうぎ)など、細部まで実際の舞台で使用する取り合わせに一致する。能を嗜(たしな)んだ敬三ならではの完成度といえる。
 紫色の衣の上に描かれる花菱文様や摺箔の宝相華とみえる文様は、謹直な線で引かれ、人物の所作で生じる生地の折れや重なりにも対応している。彩色においても、衣の重なる部分は濃く、それ以外は薄く色を塗ることで、絽または紗の素材感を表現する。模様の神経質ともとれる綿密さ、明瞭な彩色は、敬三が得意としたところで見ごたえがある。

※「杜若」あらすじ…旅僧(ワキ)が三河国の八橋に来ると、目の前に杜若の精(シテ)が現れ、『伊勢物語』「八橋」の話をし、在原業平の歌の功徳で成仏したことなどを語る。

第3章 長浜を襲った災害

 長浜に住む人々は火災、震災、水害など幾多の災害を乗り越えてきた。その様子は、文字資料や絵図に記されており、当時の悲惨な状況や、そこからどのように復興していったのかを知ることができる。
 この章では、明治時代以降の主な災害のなかで震災や水害に注目する。
 琵琶湖を擁する滋賀県では、各地域で豊かな水の恵みを享受する一方で、大雨による洪水や、氾濫など水の脅威と戦ってきた。
 一級河川「田川」の上流域にある月ヶ瀬(つきがせ)村・田村・唐国(からくに)村・酢(す)村は、幕末の頃には、姉川・高時川の天井川化により、長雨や大雨のたびに洪水や浸水に見舞われた。「四ケ字(しかあざ)共有文書」に表れる田川の治水の歴史は古く、「田川カルバート」工事は、江戸末期から明治時代にかけての一大事業であった。またその後に行われた河川改修についても明治から大正にかけて大工事が行われ、毎年被っていた町や田畑の浸水を免れることができるようになった。このような水との争いは、様々な地域で見られる。
 明治四十二年(一九〇九)八月十四日に発生した姉川地震では、震源地であった東浅井郡を中心に大きな被害が出た。展示資料中には、地震が直接的に引き起こす、建物の倒壊や、橋・道路の損壊などの一次被害のほか、崩れた家屋によって圧死したり、洪水や火災によってライフラインが断絶されるなど二次被害の様子まで克明に描かれているため、当時の状況を想像することができる。
 現在でも、災害発生時に根拠のないうわさ話や、予言が出回る事があるが、それと同じことがこの姉川地震の際にも起こっている。時代が変わっても、被災時の不安感や、更なる災害に怯える心情は変わらないことが資料から読み取ることができる。
 災害はいつ起こるか分からないからこそ、過去の事例に学ぶことで、これからの災害に備えることができるのではないだろうか。
 
「明治四十二年八月 震災日誌」 明治42年(1909) 紙本墨書 個人蔵 
 9代目国友藤兵衛(一貫斎)の孫にあたる国友藤平は、神照村村長を39歳から三度務めた。村長を退任して約1年後となる明治42年8月14日に姉川地震が発生した。14日間、全17ページにわたるこの資料は、その被害状況の記録である。
 記録によれば、7月中旬から降雨が無く、土用入り(7月20日)以来酷暑が続いたという。寒暖計(温度計)は日々華氏87度ないしは90度(摂氏約30.6度~32.2度)以上を示す日もあったという。そんな状況の中、8月14日も朝から風がなく、華氏88度(約31.1度)と暑い日であった。午後3時30分ごろに、大地震が発生した。国友地域を中心とした被害の様子が克明に記されており、10日後の8月24日には大きな余震もあったという。
 今回が初公開となるこの記録中には、神照村、東浅井郡各村の罹災被害の状況をまとめた一覧表もついており、姉川地震の被害の程度を知ることができる点で貴重である。

 第4章 第二次世界大戦と戦後の長浜 
 第一節 第二次世界大戦下の長浜

  昭和6年(1931)、中国大陸での権益拡大を図る日本は、柳条湖(りゅうじょうこ)における満州鉄道線の爆破をきっかけにまんしゅうこく満州国を樹立させた。翌年、国際連盟を脱退した日本は、中国本土へのさらなる侵略を計り、昭和12年(1937)には盧溝橋(ろこうきょう)において日中両軍が衝突、日中戦争が勃発した。そして、1939年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発、昭和16年(1941)には真珠湾への奇襲により太平洋戦争が始まり、長引く戦争は日本国内にも影を落とすこととなった。
 戦争の影は、戦時下の長浜における人々の生活にも大きな影響を与えた。江戸時代から続く長浜を代表する祭・長浜曳山祭は、日中戦争が始まった昭和12年から、祭での曳山巡行や子ども狂言(歌舞伎)が中止されており、この年以降は、祭の本日である9月15日に、出征軍人武運長久祈願祭(しゅっせいぐんじんぶうんちょうきゅうきがんさい)が執り行われていた。また、滋賀県初の小学校として設立された開知学校は、幾度かの改名を経て、昭和16年(1941)には長浜国民学校と改称し、教育現場では皇国への奉仕、敵国に打ち勝つといった方針に基づき教育が行われた。
 昭和17年(1942)6月には、ミッドウェー沖にて日本軍は大敗を喫し、空母4隻を失った。これ以降、優位となったアメリカの攻勢により、日本国内にも戦闘機や爆撃機が飛来するようになった。長浜では昭和19年(1944)11月に初めて空襲警報が発令され、翌年にはアメリカ軍戦闘機が鐘紡長浜工場に小型爆弾を投下し、一人が犠牲となった。
昭和20年(1945)8月15日、日本は終戦を迎え、長浜も新たな時代を迎えるのである。
 
国威宣揚武運長久祈願祭写真 舟町組猩々丸蔵
 昭和12年(1937)に長濱八幡宮で執り行われた「国威宣揚武運長久祈願祭」の写真。
 この年から曳山の巡行は行われないことになり、八幡宮境内にも曳山の姿はない。「国威宣揚武運長久祈願祭」は、第二次世界大戦がはじまった昭和14年(1939)に「出動軍人武運長久祈願祭」となり、翌年には「皇軍将兵武運長久祈願祭」と呼ばれるようになった。